
宇一郎の農業改革は、父と同様「水の無い田で稲は育たない」という農家の強硬な反対に遭いました。しかし、宇一郎はそれに屈せず、増収を疑うものには減収分の補填を約束し、また、にかほ市室沢地内に乾田馬耕試作農場を設置し、自らも「かかえ鋤」を抱えて農家の指導にあたりました。
宇一郎の試作農場は1町5反歩ほどであり、湿田を乾田に変える排水、灌漑、区画整理をし、広々とした田んぼで馬耕する姿は非常に先進的なものだったと思われます。
明治33年(1900)秋に宇一郎の試作農場は報告書を作り、増収の実績を農家に報告して高い関心を得ました。
鞠躬尽瘁


馬耕を推し進めるため、宇一郎は積極的に耕地整理に取り組んだ。(図中央の「画書面」が現在の平沢小学校。)

乾田馬耕
これを契機に明治38年(1905)まで5年の短い間に、平沢町(現在のにかほ市平沢地区)の80%が乾田に切り替わります。
当時の湿田耕起は1人1日で2畝歩が限界でしたが、乾田化と馬耕の導入により1反歩以上耕せるようになりました。収量も1反歩から4俵程度だったものが6俵以上取れるようになりました。
また、乾田化は冷害対策に非常に有効であり、明治38年には秋田県でも全県に乾田化を奨励しました。
齋藤茂介は庄内より技術者を呼び、灌漑をし、田を乾かし、耕地整理をし、馬耕を導入するその有効性を同郷の農家に説いて回りました。
しかしながら、「稲は水で育つものである」という頑強な農民の反対に遭い、罵声を浴びせられることすらあったといいます。
茂介らはこれに屈せず、田を乾かし馬耕の導入による省力化(乾田馬耕)の指導を続け、ようやく田が増収するようになり、農家の理解が得られるようになった矢先の明治32年(1899)に没してしまいました。
この時、齋藤宇一郎は明治学院大学の教授から、現在の農林水産省の職員として転職したばかりでありましたが、急遽帰郷し、父の後継者として乾田馬耕を推し進めることになりました。
慶応2年5月18日〜大正15年5月10日没(1866〜1926)
耕地整理図
また、齋藤宇一郎は馬耕を推し進めるために耕地整理に乗り出し、平沢地区を初めとして各地で耕地整理を推し進めました。
この耕地整理は農民の利害や先祖伝来の土地を手放すという非常にデリケートな問題を含むため大変な反対に遭いましたが、宇一郎は長い時間をかけて説得し、また、自身の土地を分け与えながらこれを成し遂げました。
宇一郎はその功績に甘んずることなく、その後も農家の為の施作を実現するため国会に打ってで、連続8期23年国会議員を勤め上げ、主に地方農業振興に多大な成果をあげました。
彼はまた農業改革のほかにも非常に農村改革に尽力しております。特に鉄道・港湾などの誘致に積極的であり、本荘と横手を結ぶ為の鉄道、「横荘線」を敷設するために発起人の1人となり、設立後は亡くなる寸前までこれを開通させるために奔走しておりました。
齋藤 茂介 翁
酒田の本間家では既に農業改革に取り組んでおり、深田より、田を乾かし馬耕の導入による省力化をする事によって成果を挙げていました。また、それに伴い、品種改良、肥料管理、耕地整理などをし、着実に農業の近代化にまい進していました。
明治27年(1894)、齋藤茂介は意を決して、この庄内地方の農業改革をにかほ市でもしようと改革に乗り出したのです。
齋藤茂介によって開始された農業の近代化は子の宇一郎に引き継がれていく。
江戸時代から明治初期にかけてのにかほ市の農業は、胸までつかる深い田であり、反収がまったくあがらず、農家の生活は困窮しておりました。
当時、にかほ市平沢の大地主であり実力者であった齋藤茂介翁は、この農民の困窮を救うべく、農業改革に乗り出しました。齋藤茂介は農家を救うのは増収以外にはないと考え、農業改革の先進地である庄内酒田の本間家に赴きました。
齋藤宇一郎は由利郡平沢村(現在のにかほ市平沢)に生まれました。齋藤家は代々旗本仁賀保家を支える重鎮の家の出身であり、父である齋藤茂介翁の跡をついで農業・農村改革に力を注ぎました。
齋藤 宇一郎
鞠躬尽瘁(きっきゅうじんすい ):心身を労して、国事につくすこと